マチュピチュを作った人は誰?マチュピチュ村は日本人だった!

マチュピチュを作った人は誰?マチュピチュ村は日本人だった!

マチュピチュは、南米ペルーにあるインカ時代から残るとされている遺跡です。
未だ謎の多い遺跡であるため、すべての詳細は明らかになっていません。

では、この遺跡は誰がどのような経緯で作ったのでしょうか。
そして、マチュピチュの入口にあるマチュピチュ村は、なんと日本人が作ったと言われているのです。
今回は、マチュピチュ遺跡とマチュピチュ村が作られた歴史について解説します。

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マチュピチュ遺跡を造ったのはインカ皇帝パチャクティ

マチュピチュ遺跡を作ったのは、インカ第9代皇帝のパチャクティ・インカ・ユパンキだと言われています。
パチャクティ・インカ・ユパンキは、クスコ周辺に暮らす小さな集団に過ぎなかったインカを大帝国へと押し上げた人物です。
代表的な物としてマチュピチュがありますが、その他にも、サクサイワマン遺跡やオリャンタイタンボ遺跡など、数々の建造物を残しています。
つまり、パチャクティ・インカ・ユパンキなくして、マチュピチュは語れないのです。
実際にマチュピチュ遺跡内には「王の別荘」と呼ばれる建物もあります。
詳細は定かではありませんが、実際にパチャクティ・インカ・ユパンキはお気に入りの別荘として使用していたのかもしれません。

マチュピチュを作ったパチャクティ・インカ・ユパンキはどんな人物なのか

パチャクティ・インカ・ユパンキは、別名「パチャクテク」や「クシ・ユパンキ」とも呼ばれています。
先述したように、彼は小さなクスコの村を大きな帝国へ発展させた人物です。
とくに彼の伝説として語り継がれているのが、クスコの帝国を作るまでの話。

ある日彼がススルプキオという泉の側を通りかかった際、不思議な水晶を見つけたそうです。
その中には立派な身なりの男性が見え、頭の後ろから太陽のような光を放ち、プーマの1頭を担ぎ、もう1頭の頭を両脚の間に挟んだ男性の姿だったとのこと。
その水晶に驚いたパチャクティ・インカ・ユパンキは、水晶を泉へ放り投げてしまったのだそうです。
その直後、彼の頭の中に「将来多くの国を従えること、今見た王家の祖先の太陽を忘れてはならないこと」が告げられたのだとか……。
やがてお受けを引き継いだパチャクティ・インカ・ユパンキは、水晶の中に見た男の姿を再現した像を造り神殿に祀ります。
その後、周辺の国を攻めて次々に支配下に置き、予言通りに強大な帝国を作り上げたのです。

この話は、今もなお、神話として語り継がれています。

マチュピチュ村を作ったのは日本人

マチュピチュの入口であるマチュピチュ村を作ったのは、日本人だとご存じでしょうか。

そのため、マチュピチュ村を訪れた人からは「日本と似ている」といった声も多く挙がります。
実際に、マチュピチュ村を作ったのは、日本人の「野内与吉(のうち よきち)」という人物だと言われています。
どのような経緯で彼がマチュピチュ村を作ったのか、以下にまとめました。

  1. 海外で成功したいという夢を抱き、22歳のときにペルーに渡る
  2. サン・ニコラスの農園で働く
  3. 過酷な労働環境のために仕事をやめてペルー国内を放浪
  4. マチュピチュ集落に定住し、密林を開拓して道路や畑を整備
  5. 集落や水路を作る
  6. ダムを造り、水力発電を行えるようにして、村に電気を通す
  7. (1935年)ペルーで「ホテル・ノウチ」を開業(当時40歳)
  8. ホテル内には郵便局・交番・裁判所も作る
  9. マチュピチュ集落の最高責任者に任命される
  10. 現地のガイドも務める
  11. 太平洋戦争勃発
  12. ペルー各地で日本人が連行される中、村人に守られる
  13. 三笠宮殿下がマチュピチュ遺跡を見学し、野内与吉の長女が花束を贈呈
  14. 51年ぶりに日本へ帰郷
  15. 1969年、ペルーで永眠(享年74歳)

上記のように、野内与吉は一生の半分以上をペルーのマチュピチュ村で過ごしているのです。
日本人が初代村長であるために、今でも日本人にとって居心地の良い村となっているのかもしれません。

野内与吉とはどんな人物なのか?

マチュピチュ村の初代村長である、野内与吉の人生について見ていきましょう。

野内与吉は、1895年裕福な農家の家に生まれました。
裕福な家庭と言われていますが、実際にご家族がどのような事業を行っていたのかなどの情報はありません。
1917年、21歳のときにゴム景気で湧くペルーに移民し、1923年よりペルー国鉄で勤務します。
その流れを経て、そのままマチュピチュに移住。

1939年にマチュピチュ地区の行政最高責任者に就任し、マチュピチュの村昇格直後は、1948年から2年間村長を務めました。
そのため、村人との信頼関係は厚く、太平洋戦争の際には村人から守られたり、1947年の記録的な大雨の中では、野内与吉が村人を励ましたりと、強固な関係を築いていきます。

1985年には、三笠宮殿下が村を訪問した際、与吉の娘オルガが花束を贈呈。
このことは日本の新聞に掲載され、野内与吉の親族が彼の消息を知ったのはこのときだったそうです。
これをきっかけに野内与吉は1968年に帰郷します。
日本滞在中は、新聞やラジオにも出演し「現代の浦島太郎」と呼ばれていたそうです。
しかし、ペルーには自分の帰りを待つ子ども達がいたため、再度クスコに戻り、1969年に永眠。
彼が亡くなってから長い月日が経過していますが、彼の子孫もマチュピチュ村にいたことを考えると、日本人とマチュピチュ村に暮らす人々は、遠い親戚のような関係にあたるのかもしれません。

ペルーと日本の歴史

マチュピチュ村を作った野内与吉について解説しましたが、そもそもなぜ彼がペルー渡ったのでしょうか。
そこには、ペルーと日本と繋がりも関係しています。
まず、日本人がペルーに渡るきっかけとなったのが1899年。
ペルーのサトウキビ耕地での契約労働者という形で、多くの日本人がペルーへ移民します。

第一回目の移民では男性のみ。
第二回目では、女性を含む家族も移民したと言われています。

そして、契約満了後には、そのままペルーで商売を始める人もいたそうで、次第に日本人による団体や組合が全国に設立されたそうです。
その結果、リマにも日本人学校が開校されました。
1923年以降は「呼び寄せ移民」が盛んに行われ、多くの日本人が移民してきます。
1930年代においては、リマ首都圏に日本人移民の8割以上が居住していたそうです。

しかし、この日本人の進出を脅威に感じたペルーは反日感情を高めてしまい、1940年には反日大暴動が勃発。
翌年太平洋戦争が始まると、ペルー政府は日本との国交を断絶し、資金凍結、財産没収、日本人学校閉鎖・没収等を施行します。
ただし、戦後においては日系人はペルー社会への同化の道を選ぶようなり、ペルーと日本との確執は少しずつ消えていきます。
その結果、1990年には、日系二世のアルベルト・フジモリ氏が大統領に就任。
2018年には、日本・ペルーなど11カ国が環太平洋パートナーシップ協定を締結しています。

マチュピチュと日本人の関係は深かった!

「マチュピチュ村を作った人」と「マチュピチュ遺跡を作った人」で混同されてしまいやすいですが、マチュピチュ遺跡を作ったのは、当時の皇帝であるパチャクティ・インカ・ユパンキです。
そして、マチュピチュ村を作ったのが、日本人の野内与吉になります。
しかし、ペルーのマチュピチュ村を作ったのが日本人だったというのは知らない人も多かったのではないでしょうか。
何もないところから水や電気をひいて村まで作り上げたのは、日本人として誇らしい功績ですね。
ぜひマチュピチュ村に行く際には、野内与吉の歴史を思い出しながら歩いてみてください。
ところどころに日本人の雰囲気を感じるかもしれません。
今長谷
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